この記事を監修したのは
小西行郎先生
日本赤ちゃん学会理事長/小児科医
2001年赤ちゃんをまるごと考える「日本赤ちゃん学会」を創設。2008年10月1日より現職。主な著書に『赤ちゃんと脳科学』(集英社新書)、『赤ちゃんのしぐさBOOK』(海竜社)、『発達障害の子どもを理解する』(集英社新書)、『はじまりは赤ちゃんから』(赤ちゃんとママ社)他。
受精後18日で現れるベビーの脳
お腹に宿った赤ちゃんは、最初は魚のようなカタチをしていて、しっぽのようなものが見られます。そのしっぽが消え、頭と胴、手足の区別がはっきりし、顔つきも分かるようになり、人間らしいカタチになるまでにかかる日数は、一体どのくらいだと思いますか?
答えは、およそ50日。週数にすると8週目くらいです。たった8週間で、赤ちゃんは魚から人間の姿にまで成長を遂げるのですから、驚異的なスピードですね。
なかでも、すべての活動の司令塔となる「脳」は、とくに早い時期から作られます。受精後18日目には、脳のもとになる「神経板」が現れ、30日目には脳のおおまかなカタチができ上がります。8週目になると大脳、延髄などに分かれ始め、24週頃には大脳が前頭葉、側頭葉、後頭葉に分かれ始めます。脳の特徴でもある「しわ」ができ始めるのは、28週頃。38週には大人の脳とほぼ同じカタチになります。
脳のカタチはこのように変化していきますが、カタチだけ整っても脳としての機能は果たしません。脳が脳としてはたらくためには、神経細胞のネットワーク化が必要です。脳の内側では、同時にそのしくみも急ピッチで作られています。
少し難しい話になりますが、お腹の赤ちゃんの脳神経細胞は、妊娠5週目頃から生成が始まります。神経細胞は8週から34週頃までの間に急速に増えていきます。脳の中心部から蔓のように伸びた脳神経細胞は、指定の場所に到達すると、枝葉を広げてほかの神経細胞とシナプスを作っていきます。
シナプスというのは、ニューロン(神経細胞と、そこから出ている何本かの長い突起を含めてこう呼びます)同士が結びつく場所。シナプスとニューロンとの間にはすき間があいていて、「神経伝達物質」という物質を介し、離れたニューロンに刺激が伝わっていきます。これが脳のネットワークです。
お腹のベビーの脳神経細胞は、産まれるまでに基本的な配線ができあがりますが、産まれた後もずっと作られていきます。
細胞が死んでいくことも重要な発達の段階
細胞は、量が増えることで成長する。そう思うかもしれません。赤ちゃんの身長も体重も、手も足も、成長するにつれて大きくなっていくのですから、そう思うのももっともです。
しかし、細胞は増えることだけが成長の過程とは限らないのです。脳神経細胞もそのひとつで、お腹の赤ちゃんの脳神経細胞は、じつは大人の脳の神経細胞の数をはるかに上回っています。それが少しずつ減っていき、生まれる直前には大人の脳とほぼ同じか、それより少しだけ多い数に落ち着きます。この現象を、「神経細胞の細胞死」といいます。どうせ減ってしまうのに、なぜたくさんの数の脳神経細胞は作られるのでしょうか。
それは、お腹のなかで万が一リスクが生じた場合の、「予備」としての役割を担うからではないかと考えられています。たとえば、何か障がいが発生して脳の一部分が死んでしまったときなどに、余分な脳の神経細胞がピンチヒッターになるのです。
そして、障がいを受ける時期が早ければ早いほど、予備の脳神経細胞がダメージを受けた部分をカバーするため、症状は軽いという傾向があります。妊娠初期のころの赤ちゃんは、急速な成長を遂げるだけに、食べ物や薬などの影響を受けやすく、ママは注意が必要です。しかしその一方で、赤ちゃんは自分のカラダを自分で守ってゆこうとする力強い生命力を持ち合わせているということも、知っておいてください。
いったん増加してから不要なものが整理されていく脳のメカニズムは、人間が生きていくために遺伝子に組み込まれたプログラム。一見、無駄に見える脳の神経細胞の増加にも、ちゃんと意味があります。
しっぽが消えるのも細胞死のひとつ
この細胞死が起こるのは、脳だけではありません。
たとえば、最初にお話した「しっぽ」もそのひとつ。妊娠7週頃のベビーにはしっぽがありますが、8週目になると、しっぽは消えてなくなります。それは、しっぽの部分の細胞が、死んでゆくからなのです。
また、指も細胞死によって機能的に作られていきます。手が形成されたばかりの頃のベビーには、水かきのようなものがあり、カエルのように指がつながっています。それが成長するにつれて消えていきます。水かきがなくなることで、1本1本の指が離れ、指として動かしやすくなるのです。
男児の車好きは、お腹の中での脳の作られ方の影響も
考え方や趣味嗜好に見られる男女の脳的な性差も、細胞死に影響を受けています。男の子は小さなころからクルマや戦隊ものが好き、女の子はままごとやぬいぐるみが好き、といった子どもの遊び方の特徴は、単に育て方の違いによるものだけではなく、お腹にいるときの脳の作られ方も影響しています。
お腹の赤ちゃんは、ごく早い時期の妊娠初期には生殖器に違いはありませんが、妊娠7週頃になると、男の子のカラダには精巣が現れます。精巣ではアンドロゲンという男性ホルモンが合成され、分泌されるようになります。このホルモンの作用で、男の子の脳が男型の脳に作られていくと考えられているのです。
とりわけ妊娠14〜20週ごろはアンドロゲンが大量に分泌されますが、この時期はちょうど神経細胞の細胞死が起こる時期と重なります。赤ちゃんがお腹のなかで浴びるアンドロゲンが、神経細胞の細胞死になんらかの影響を与えることで、男女の脳の構造の違いを作っていくのではないかと考えられています。
たくさんの細胞のなかから、必要ではない細胞が自然に淘汰されていくという細胞死のメカニズム。そのプログラムは、何億という精子のうち、たったひとつの精子だけが命を引き継いでいく段階から、すでに機能しているのかもしれません。