娘と過ごす時間が楽しくて仕方ない。
寝ても覚めても、こんなにも一人のひとに夢中でいられるなんて。
こんなにも気兼ねなく、遠慮なく、容赦なく、愛を注ぎつづけることができるなんて、
これまであっただろうか。
恋愛となると、やはりどこか慎むし、重いと思われたらどうしようなんて考え出すとそうはいかない。
もうしばらくしたら「うざい」とか「重い」とか「しつこい」とか言われて嫌がられちゃうかもしれないけど、少なくともそれまではわたしが持ち得る限りの愛とその表現は何ひとつ控えないつもりでいる。
自己犠牲をいとわないなんてことではなく、そんなこと思わないというか感じないというか浮かびさえしなくて、なんていうかとにかく愛おしくてたらまらない。
それは生まれたときから変わらず湧き出てとめどないのだけど、
しかしほんの数ヶ月前まで、それを楽しむ余裕はまったくなかった。
こんなにも脆くかけがえのない生きもののすべてが、己を支えることだけで精一杯のわたしという生きものにかかっているという状況に(なんていうと大袈裟だし、いま思えば事実大袈裟なんだけど)、とにかく不安でならなかった。
妊娠中、生まれてはじめて孤独じゃない瞬間を味わえた気がしたけれど、出産後それまでには感じたことのない孤独を感じたりもした。
疎外感というのが正しいのか、それまでいた世界にはいられない自分。かといって、新しい居場所も見つけられないでいた。
そんなとき、わたしを救ってくれたのはお母さんたちだった。
もちろん実の母も義理の母もそうなんだけど、お母さんと呼ばれるひとみんな。
世界中のお母さんたちだ。
娘を抱っこした状態でお使いに行ったとき、そこはセルフで袋詰めするタイプのスーパーだったのだけど、わたしの買ったものを代わりに袋に入れてくれたレジのお母さん。
「すみません。大丈夫です」というと、「いいの。あなたはこの子をみるのが仕事。これくらいわたしにやらせて」と言ってくれた。
いつかエレベーターで一緒になったお母さんは、しばらく娘をあやしてくれたあと「大変でしょ? でも本当に今しかないから。頑張って」と声をかけてくれた。
仕事の両立に悩んでいたとき、ある働くお母さんは「どちらも問題なく両立できています! なんていう人がいたら会ってみたいわ。どちらも頑張る。それだけよ」と言ってくれた。
役所でやたら欄の多い書類に記入をしているとき「すこし抱っこさせて?」と、まるで自分がそうしたいからというように娘を代わりに抱っこしてくれたお母さん。食事中、「こっち来る??」とわたしが食べ終えるまで娘を抱っこしつづけてくれたお母さん。新幹線で移動中なんだか娘がニコニコしているなあと思ったらその視線の先でいないないばあしてくれていたお母さん。電車で席を譲ってくれたずっと年上のお母さん。
世の中にたくさんいるお母さんのその気取りのない優しさにどれほど救われたか。
出産後、それまで気づかなかったお母さん同士の見えない連帯感というか連携というか、支え合いみた
自分の子どもはもちろんだけど、子どもという子どものしあわせを願う。
かなしいニュースがこうもつづくと、胸は痛いし、ただただつらい。
思うと涙が溢れてくる。
できることはないものかと考えるとまた自分の無力を思い知るけど、たとえば未然に防ぐことができないのならばせめて最大限の愛を、その瞬間まで悔いのないように与えたいと思う。
自分の子にはもちろん、出会い、触れ合う子どもたちすべてに。
娘にとっていいお母さんになるのが目下の目標だけど、それと同時に、わたしも街のお母さんになって、いつか誰かのお母さんとその子をほんの一瞬でも何かから救うことができたら(せめてクスっと笑わせることくらいできたら)と思う。〈つづく〉
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Profile 【著者】堀川 静
フリーランスライター。「Hanako」や「BRUTUS」などの雑誌を中心に広報誌や地方自治体のブックレット、WEBマガジンやコーポレートサイトなど、幅広いジャンルの媒体で執筆。2018年9月に第一子となる女の子を出産。現在、育児と仕事の両立を模索中。